記事一覧

アカデミズムの知見とは

グローバリゼーションとは、国境や地域の枠で囲まれ分断されていた「市場」が、輸送手段やテクノロジーの発達で統合される現象にほかならない。リーマンーショツクや世界経済危機で露呈した米国のサブプライムローン問題は、信用力の低い所得者向けの住宅ローンの債権が「市場」できちんと流通するか否かが議論の焦点になった。ギリシヤなどの債務問題で露呈した欧州危機も、共通通貨ユーロが「市場」でいかに信用力を確保するかという議論が核心といえよう。このとき浮かび上がるのが、需要と供給の間に不均衡が生じた際に、価格メカニズム、すなわち価格の調整能力がどの程度高いかという論点であろう。新古典派やその流れをくむ「市場重視派」は、価格の調整能力は高いと考え、政府による市場への介入は必要なく、逆に弊害もあると主張する。一方で、伝統的なケインジアンやパターナリズム(父権主義)に理解を示す論者は、短期的には価格は硬直的で均衡に戻るまでには時間がかかるので、政府による市場への介入が必要だと訴える。

ただし、どちらの学派に与するにせよ、議論の起点が市場にあるという点にはかわりがない。そもそも日本で「市場原理」というと、そこで起きる競争の弊害に目が向けられ、冷酷、弱者切り捨てが連想されて分か悪い。だが、伊藤元重・東京大学教授がかつて日経本紙「やさしい経済学」(2001年5月2日)で指摘したように、「市場の機能なしには、現代経済は一日たりとも機能しない」。巻末に収録した座談会の出席者の一人、松井彰彦氏の言葉を借りれば、「市場は万能ではないとしても、市場を拒むことは不自由な経済を作ることである。それは人と人のつながりを断ち切ることに他ならない」(『不自由な経済』2011年)のである。

たかが市場、されど市場。近代経済学の祖、アダムースミスの『国富論』から200年あまり、アカデミズムは市場とは何かを考えてきた。市場を礼賛するにせよ、否定するにせよ、そうした賢人たちの深い考察を踏まえずして、単なる雰囲気やムードに流されるだけでは政策論議は深まらない。アカデミズムの知見を利用して自分の問題意識と照らし合わせながらそれを深め、解決のヒントを得ていく。そんなところに経済思想を学ぶ意義がありそうである。日本経済新聞の朝刊「経済教室」面に「やさしい経済学 危機・先人に学ぶ」と題して、2011年11月から掲載したシリーズやその関連記事を軸に、加筆・再構成してまとめたものだ。

世界経済の激動の中で経済学の歴史上燦然と輝く偉大な学者の言説をどう読み解けばよいのか、日本を代表する識者がわかりやすく解説・論じたことから、連載当時から大きな反響を呼んだ。各章の末尾には、巨人たちの主著や評伝、解説書に加え、経済・社会を理解する上で、各筆者がすすめる。一押し本を挙げてもらった。企業や組織で働く多くのビジネスパーソンや学生など幅広い層が、これからの経済の行方やあり方を探るヒントを本書に見いだしていただければ幸いである。アリストテレスの名を聞いたことがない人はいないだろう。ソクラテス、プラトンとともに古代ギリシヤ最大の思想家の一人で、物理・生物・論理・修辞・芸術・政治・倫理・哲学など多方面で思索を残し、「万学の祖」と称されている。

だがいくら万学の祖とはいえ、いま貨幣の思想史を俯瞰するのに、紀元前384年に生まれ、同322年に世を去ったこの古代の人物から始めるには、それなりの理由が必要である。彼はなぜ現代社会にも示唆を与える思想家なのか。宇宙を客観的に支配する法則性を探求する科学。自立した市民が等しい投票権をもつ民主制度。共同体的規範を失った人間が犯す悪行や愚行を描いた悲劇や喜劇。これらはすべて、紀元前6~4世紀の古代ギリシャで誕生し、現代に受け継がれている。古代文明の多くは私たちには異質であるが、アリストテレスが生きた古代ギリシャとは、現代人にも理解しうる高度の「近代社会」であったのである。

商談中の空き時間

私が言いたいのは、結局その地域では、私の会社のテレビの評判を落とした可能性があるということだ。当時カラーテレビを購入できる人は、一定程度の資金がある人員であり、ほんの僅か高いものでも品質の良いものなら購入できる人たちであった。中国の口コミは私たちが想像している以上に早くて影響力がある。大会社になると縦割りの弊害が多くなる。従って、横串をさす横断的な組織もつくり、横の連絡を円滑にするということが良く言われて、すぐ横の連絡用の組織も作られるが、果たしてそれで十分であろうか? 何かと言うと「組織」が作られる。今でも日常的にテレビでも各種の不祥事が発覚したり、事件が起こるたびに、社内の監査組織が出来るが、一番大事なことは本当にその商品を愛し、誇りを持ち、顧客にその商品を十分か可愛がってもらい、また、顧客のことを考えて商品化し、かつ使いやすいように説明をしたり、読みやすい説明書をつけているかであり、それはその商品に係わる人、「全ての人」に係わる問題であると思う。

組織よりもまず「人の教育」が優先すると思う。これなくして、組織や規定ばかり作っても、費用対効果はあまり期待できないのではないだろうか。古い話をしたが、この話は現代でも益々生きてくる内容と思う。現在は昔と違い、中国に対してプラント売りや設備を中国の工場にラインとして販売することは少なくなってきたが、それでも大型商談や中国側の組織を相手にして商売をすることがないわけではない。その場では嬉しいが後で困ることがある。かって、私は工場で使用する製造設備をフルセットで売る仕事をしていた。当時、中国の相手企業は、工場を改良する為に予算をたて、国から資金を貰い私だちから製造ラインを購入した。当時は引合を受けて、見積もりを提出して、ある程度商談が土俵に乗りそうであると、現地で商談をすることになる。文化大革命中は、北京の商談室での商談が中心であったが、文化大革命後は地方の工場で商談をすることが多くなった。

私たちも、営業や技術者が数名で現地に乗り込み交渉することになるのだが、相手が検討する間は、私たちの時間が空くことが度々あった。また、会社の幹部と一緒に出張している時で、実務担当者が交渉中の際は、幹部が手持ち無沙汰になる時がある。今でも国有企業系の会社には存在しているが、外事処という組織がある。主に、工場の対外的な業務を担当しているが、私たちに対応する窓口であり、私たちの日常的な世話もその部署が行う。ホテルのアレンジや、切符の購入などの面倒も見てくれる。私たちの時間が空く時は、外事処の出番となる。恐らく中国側の幹部からの指示であろう。外事処はこの時とばかり近くの観光名所、名所旧跡等をアレンジしてくれる。アレンジの上、私たちに申し入れてくる。私も慣れていない時はありかたかって、この申し入れに従ったものだ。

アレンジがないと中々自分たちで行けない箇所が当時は数多くあった。誠に至れり尽くせりであった。中には、外国の賓客ということと幹部の指示ということで、一般の中国人が入れないところを車に乗ったまま、見学する現場まで乗り入れることがあった。最初の間は、単純にありがたがったが、何回か繰り返すうちに、気が付いたことがあった。アテンドする外事処の人が案内をするところを余り知っていないということが頻繁にあることだ。また、これはこの機会に彼らも私たちを出汁にして行って見たい所を案内するケースが多々あるということだ。今度は、逆に中国側が日本を工場参観や視察などで日本を訪れた時に、私たちは出来るだけ効率を重視して空き時間を作らないように日程をピシッと作成して、日程をこなして行った。ところがこれの評判が頗る悪いのだ。

即ち、日本のあちこちを見学する時間がないのだ。中国側からすれば、日本のミッションが中国を訪れた際には、時間を割いて見学をしてもらった。その国の状況を知ることも相手を理解する為の一部である。ところが日本では、見学に連れて行っても中国と同じような待遇をしてあげることも出来ない。日本では国賓でもない限り、規則を曲げて一般の人と違うことは例外を除けば出来ない。また中国の外事処のように専門の担当部署がない。一人で何役もこなさねばならないのだ。また、その費用も馬鹿にならない。そんな訳で、国の体制の違いについて言訳じみた説明をすることになる。従って、その後は、中国を訪問しても出来るだけ顧客の誘いを断ることにした。だが外事処が私たちに声をかける時は全てのお膳立てが済んでから申し出てくる。

消費者金融収入証明不要

サハリン2

この首脳会談では、両国を結ぶ二つの天然ガスーパイプラインの建設方針でも合意した。西シベリアから中国東部への全長三〇〇〇キロのパイプラインと、東シベリアのコビクタ天然ガス田からモンゴル経由で中国沿岸部まで全長四二〇〇キロのパイプラインである。双方で、年間六〇〇億立方メートルから八〇〇億立方メートルの天然ガスを供給できるという。ロシアのマスメディアは、この首脳会談の結果を受けて「モスクワは遂に、中露エネルギー同盟を結ぶのに受け入れ可能な条件を手に入れた」(週刊誌『イトーキ(総括)』○六年三月二七日号)との評価さえした。

プーチン大統領はこれについて、「われわれは、中国がロシアのエネルギー資源を安定的に輸入したいことを理解している。ロシアはエネルギー需要が増えている中国をパートナーとして信頼できる。エネルギー分野における中露両国の妨げになる政治的、イデオロギー的、経済的な問題は存在しない」と述べている。西シベリアから中国・新疆ウイグル自治区への「アルタイーガスーパイプライン」計画も、すでに始動している。これは、きわめて狭い中露西部国境(モンゴルとカザフスタンとの間にあるアルタイ地方の五五キロの国境)を通り、新疆で「西気車輸」パイプラインに接続するもので、最終地は上海などの沿岸工業地帯になっている。これらのパイプライン建設では、ガスの売り渡し価格で両国の詰めがかなり難航しているとの報道もあるが、建設の基本合意は揺らいでいない。

ロシアのガスプロム社と中国のCNPC(中国石油天然気集団)はすでに○四年一〇月、天然ガス開発分野における協力協定を締結しており、東シベリア・極東のガス田の地質調査、採掘、パイプライン建設、販売などでの戦略的協力を行っている。これらのプロジェクトは東シベリアのクラスノヤルスク地方(ユルブチェンHクユンビン)、イルクーツク州(コビクタ)、サハ共和国(チャヤンダ、タラカン)の石油・天然ガスの開発・生産をその柱としており、道路建設などインフラ整備を含めて東シベリア・極東の経済振興の柱と位置づけられている。なかでもコビクターガス田は可採埋蔵量一兆八〇〇〇億立方メートル、輸送容量年間三〇〇億立方メートル、チャヤンダーガス田はそれぞれ一兆二四〇〇億立方メートル、二〇〇億立方メートル、と大きい。いずれの産油地帯とも、石油・天然ガス採掘、パイプライン建設の上で資金面、採算面の課題を抱えている。

ロシア政府内では、注目すべき構想も浮上している。一つは、コビクターガス田などイルクーツク州やクラスノヤルスク地方のガス田からナホトカまでの天然ガスーパイプラインを、「東シベリア太平洋石油パイプライン」に並行して敷設する案である。もう一つは、サハ共和国のチャヤンダ、タラカン両ガス田からハバロフスク経由で中国東北部の瀋陽までパイプラインを建設する計画だ。これとサハリンからの天然ガスと合わせて、パイプラインを朝鮮半島まで延伸する構想も検討されている。

サハリンは極東ロシア、あるいは北東アジアにおける最大の石油・天然ガスの生産地になりつつあり、日本への輸出も始まっている。サハリン北部の大陸棚では、ロシア、日本、アメリカ、オランダ、英国などの国際企業連合で石油・天然ガスの開発が行われている。これは八つほどの区域に分かれているが、サハリンー、サハリン2がすでに稼働している。サハリンーはエクソンモービル、伊藤忠、丸紅などが出資し、石油は○七年からパイプラインで間宮(タタール)海峡を渡り、ハバロフスクまで運ばれている。天然ガスの生産も始まっている。サハリン2はロイヤル・ダッチーシェル、三井物産、三菱商事の企業体だったが、ロシア政府がPSA方式(総事業費分を最初に出資者が取得する生産分与方式)に異議を唱え、○六年ガスプロム社が過半数の株式を取得して、ロシア主導になっている。

闇の職業安定所

「いつか工場を持つのが、僕らの夢だったんだ。メーカーと契約をして完全な請負をするなら、自分たちのスペースでやる方がいいと思っていたんです」小野さんは、メーカーの工場に従業員を送り込む従来型の請負ではなく、契約した仕事を自社の工場に持ち込む新しい形の請負に、取り組み始めていた。現在、ここでは、太陽電池、半導体と、二つのメーカーから生産工程の一部を請け負っている。太陽電池部品の検品を担当する作業場。「この穴を見ているんです」。肉眼で発見するには非常に難しい、小さな穴や汚れを見つけ出す作業を繰り返していた。一つの部品につき、裏表五秒以内で不良品を見分けることが求められる。

働く人の多くは、地元の二〇代前半の若者たちだ。高校を出て地元で仕事を探す人が大半で、五〇人が社員として働いている。二〇〇八年一月からは一〇人の新入社員が加わった。一日八時間の立ち仕事。決して楽な仕事ではないが、派遣とは違い、請負会社の社員として、自分たちの工場で仕事ができるメリットがある。メーカーから違法な状態で働かされることも、偽装請負もここではもちろん発生しない。そして何より、仕事の進捗によって給料が上がっていくので、やる気が出るのだ。小野さんは、さらに高度な技術を習得し、メーカーから高い単価の仕事を請け負えるよう、社員の研修施設も準備していた。

「メーカーと伍して動ける人材育成をしないと、我々のような請負会社は生き残る価値がないと思います。そして、メーカー側も使う意味がないのです」自社工場を視察した夜。小野さんは、工場で働いていた新入社員たちに、ポケットマネーで焼肉をご馳走した。小野さんは、新入社員たちに語りかける。「君たちは、胸を張れる仕事をしている。いろんな報道で心を痛めている人もいると思うけど、何を言われても堂々としていればいい。そして、力を発揮するよう、お願いしますね」

これを聞いた新人社員の一人は「働いているみんなが頑張らないとね。社長だけががんばってもダメですから」と応じていた。不況の先を見据え、製造業のなかで光を見い出そうと、地道な努力が続けられてい私たちの生活に欠かせないものとなったインターネット。総務省の調査によると、二〇〇九年一月時点でのインターネット利用者は九〇九一万人、人口普及率は七五・二%と推計されている。しかし、そのインターネットや携帯電話サイトを悪用した事件が相次ぎ、社会問題となっている。二〇〇七年八月二四日夜、愛知県名古屋市で帰宅途中の会社員、磯谷利恵さん(当時三一歳)が、三人組の男たちに拉致され、ハンマーで三〇回以上殴られて殺害されるという、残忍極まりない凶悪事件が起きた。

この三人の犯人を結びつけたのは、携帯電話のインターネットサイト「闇の職業安定所」だった。犯罪の共犯者募集などを行っていたインターネット上の掲示板で、全く面識のなかった犯人たちは、このサイトで短いやりとりを行って知り合った。偶然通りかかった磯谷利恵さんの命を奪い去ったのは、互いの本名さえ知らない犯人たちだったのだ。事件から数力月後、母親の磯谷富美子さん(五六歳)は、亡くなった一人娘の無念を晴らすために、立ち上がって闘うことを決めた。実は、そのための武器もインターネットだった。インターネットの専門知識も少ない富美子さんだが、知人らの助けを借りて、逮捕起訴された三人の被告に極刑を求める活動を行うためのホームページを立ち上げたのだ。

盲目的愛国主義者アメリカ

ペネッセ教育研究開発センターの行った大学生の意識調査(二〇〇八年十月)でも、84・4%の学生が「仕事を通じて社会に貢献することは大切だ」と回答しているように、若者の社会に貢献しようとする意志は強い。以上、日本人とアメリカ人の持つ基本的価値観の違いについて、八つの基本的価値観の軸のそれぞれにおいて、細かく量的に評価してきた。それでは、アメリカ人を感覚的にひとまとめにみてみるとどういう評価になるのだろうか。アメリカ社会のなかで、長くビジネスマンとして活躍した三菱電機アメリカ法人の元会長木内孝氏は、その著書『アメリカで働くということ』(サソマーク出版)の中で、アメリカ人気質を次のようにまとめている。

アメリカ人は、考えるよりおしゃべりが先行し、エネルギッシュな遊び好きで、英語は世界語という自負を持ち、アメリカ=世界と思っている。さらに、わたしの定義した価値観の軸に沿って見ると、次のように評価している。かなりの排他主義。盲目的愛国主義者で、他国の文化を理解しようという気持ちはほとんどなく、努力したらどうだと勧めてもだめなように思える。徹底した利己主義。私利私欲と言ってしまえば、元も子もなくなるが、要するに自己中?主義。会社のためより自分のため、自分のためなら他人を踏み台にすることができるといったら叱られるか。概して物事に無関心。アメリカ人の考え方の根底には、個人的に動かされない限り、何事にも無頓着で、自分には関係ないという強い態度がある。

驚くほど勘定高い。お金に対する貪欲さが、わたしたち普通の日本人にとっては、恥ずかしいとさえ思われるくらいだ。アメリカ人相手なら、たいていのことはお金次第で解決できそうに思える。明日の満足より今日の喜び。何事もインスタントが好きで、砕易させられることがある。短期決戦タイプ。わたしたちは長期展望と長期路線。アメリカ人の近視眼的、先の先に興味を持たない性格は、ビジネスの場でいつも対立を生む原因になっている。リスクに挑戦するか、安定を好むか、という軸において、アメリカ人はリスクに挑戦する傾向か強く、日本人はそれか弱く、安定志向だと分類した。そこで、アメリカではベンチャーか盛んだが、日本ではベンチャーか弱い、という差が出るのだろうと指摘した。このあたりの客観的なデータをご覧にいれよう。

製造業で先端技術をもとにベンチャーを起こそうとする候補者としては、大学の理工学部の学生か期待されるので、両者の意識の比較調査結果を示そう。日本側は東京大学と東京工業大学、アメリカ側は名門のマサチューセッツ工科大学をとり、卒業生の意識と職業経験等について、科学技術政策研究所か行った調査だ。その結果、アメリカの大学生は、自分で会社を興すことを第一の希望と考えているか、日本学生は、大企業に就職することを第一の希望としていることか示された。(ただ、アメリカでも、大企業で出世することを希望する人も決して少なくない。)アメリカの学生は卒業後、何度も転職して中小企業で働く者が多かったが、これに対して、日本の学生はほとんどが大企業に就職し、転職することかほとんどなかったことか歴然とした。

「大いに希望していた」が、アメリカ60・2%、日本17・7%、「希望していた」が、アメリカ33・6%、日本58・0%、「ほかに選択肢かなかった」が、アメリカ3・2%、日本17・1%で、アメリカ人の93・8%が職場に満足しているとしている。アメリカの理工系の学生は、自分かしたいことを妥協せず追求し、何度も新しい仕事にチャレンジするので、結局、自分の希望する職場でやりたい仕事かできるようになっている。アメリカ人と日本人の学生気質か決定的に違っていることが明白だ。同様に、学生の仕事の目的に関する意識についても注目される。日本の学生においては、「世の中のためになる」ということを目標とする人が五割近くいたのに対し、アメリカは二割弱。一方、アメリカでは約四割近くの学生か、「よい家庭を築く」ことを求めていたのに対し、これに賛同する日本人学生は一割強にすぎない。

アメリカ的経営と成果主義

このような傾向を助長する可能性のある改革か学校の教育現場ですら進められようとしている。二〇〇五年度を「金融教育元年」とするスローガンのもとに、アメリカでやっているからといって、資産管理を初等中等教育でも教えようという動きである。教育の場では、金にかかおる問題ぱこれまで教えてこなかった。しかし、金融市場が自由化し多様化した今日では、日本人の資産管理の感覚の乏しさか危ぶまれる、そこで学校教育で金融資産について教えよう、というわけだ。どのような教育内容とするかが注目されるか、そのなかで当然、株についても触れざるを得ないだろう。その場合、下手をすると、株を単に簡単な金儲けの手段として教え、マネーゲームに児童生徒を引き入れる可能性もあるだろう。

金融広報中央委員会が、小学校や幼稚園でまで金融教育公開授業を行っているか、学力低下か深刻な問題になっている今、そんなことにかまける前に、まず、働くことの尊さを教えることこそやるべきではないか? 株を教えることによって、小さい頃から、まじめに働くことをバカにするような風潮を植えつけることにでもなれば逆効果だ。アメリカでやっていることだからといって、社会構造の違いを無視し、うわべだけを真似すると、旧本では害になることに十分注意しなげればならない。日本の生命線である企業の経営についても、アメリカの物真似か状況を良くするどころか、悪くしている傾向か見られる。一九八〇年代には、日本的経営か最善だと言われていたか、調子か悪くなると日本的経営だからうまくいかなくなった、と一八〇度評価を変えてしまった。そして、それまで批判していたアメリカ的経営が急によく見え出して、それを近年大幅に取り入れようとした。

アメリカのやり方で日本はうまくいったのだろうか?典型的な例は成果主義である。理屈では、仕事の出来栄えに応じて給料か決まるのは当然だが、では仕事は正確に評価できるだろうか、というと、これがなかなかむずかしい。ひとりでやっている販売活動ならば、売り上げか成果としてカウントされるからやさしいたろうか、チームでやっている場合はどうだろうか。個人個人か分業して一つの目標を達成していくのに、簡単に個人ごとに成果を測ることなどできるのだろうか。日本の企業はチームワークが基本だから、そもそも成果主義になじまない。また、利益を出した者が多く報酬を得るというのはいたって当然に思えるが、会社では、将来の成功を期待して、当面は赤字でもやむを得ない部門もあるのに、赤字部門というだけで、そこに配属される従業員の給料か少なくなるようなシステムでは、将来の飯の種になるものを自らつぶしてしまうようなものである。

さらに成果がいつ出てくるかわからないような長期的な課題、研究開発などとなると、短期的にはそもそも成果がわからない。こういう状況がありながらも無理やりに成果主義を導入したので、多くの混乱が起きた。自分だけの仕事に熱中し、仲間を助けることがなくなり、チームワークがズタズタにされ、かえってマイナスに陥ってしまったという例は枚挙にいとまかない。しかも、毎年の給料を決めるために、上から下まで一人ひとりか上司と相談するとなると、そのために膨大な時間か使われる。本来ならば仕事へ振り向けられるべき貴重な時間か不愉快な議論のために無駄にされてしまう。この点からも会社としては大きなロスであろう。

アメリカ人は個人主義か強いから、上司と仕事や給料について言い合いをすることを厭わないかもしれないか、日本人には合わない。人間関係を悪くするだけで職場の士気か落ちる。それでも会社側が成果主義にこだわるのは、それによって総人件費を抑制しようとしてい石からだ。それではみなか成果をあげても、総額としての給料は上がらない。つまり、成果主義とはきれいごとにすぎなかったわけだ。アメリカ流の成果主義か日本人には適していないとの反省か広がってきたところで、政府の公式見解である労働経済白書ですら、成果主義の問題点を指摘し、適用範囲の見直しや評価基準の明確化などの改善を指摘するに至っている。

沖縄県民のアイデンティティー

奄美に住んでいた作家・島尾敏雄氏はもっと視野を広げて、日本列島から琉球列島までつながる島々を一つにして「ヤポネシア」といった。ジャーナリストの辰濃和男氏は奄美、沖縄の自然、文化、歴史を一つにして「リユウキユウネシア」と表現。いずれも日本列島の島々、沖縄を大きな視点から捉えようとしたものである。「琉球」にはこのように、「沖縄」にない、広い、大きな概念がある。現在では「沖縄県」「沖縄観光」「在沖米軍基地」などとごく普通に使われている。しかし、戦後、沖縄を占領、統治した米軍は、沖縄が復帰するまでの二十七年間、「沖縄」よりも「琉球」を意図的に使った。「沖縄」を使うことを禁じていたわけではないが、米軍が関わるものについては「琉球」が主流だった。

米軍は沖縄を日本(本土)から制度的、政治的な面だけでなく、精神的にも切り離そうとして、沖縄はかつて「琉球王国」であり、もともと、日本ではなかった、明治以来、日本から差別されてきたではないかということを強調するために、できるだけ「沖縄」を使わず、積極的に「琉球」を使用していたのである。政府機関を「沖縄政府」といわず「琉球政府」、立法機関は「琉球立法院」、中央銀行は「琉球銀行」、米軍が設立した大学を「琉球大学」という具合である。米軍の沖縄統治機関は「ユナイテッド・ステーツでシビル・アドミニストレーション・オブ・ザ・リュウキュウ・アイランズ(USCAR=ユースカー)」(米国民政府)と称した。米軍が住民式を用に配布したパンフレットのタイトルは「琉球の光」であった。

こうした米軍の統治政策に対して、県民は好ましく思わず、民間サイドのものは「琉球」よりも「沖縄」が多かった。「沖縄県祖国復帰協議会」「沖縄教職員会」などは抵抗の意識から。復帰する前、沖縄教職員会では本土に手紙を出すとき、自分の住所には「沖縄県那覇市」などと書くように呼びかけていたこともある。当時、「琉球」にはどちらかというと米軍寄りという匂いがあって、復帰運動の中などでは「琉球」は絶対といっていいほど使用されなかった。米軍に対する抵抗とは別に、既に「琉球」が使われているために、「沖縄」が用いられたケースもたくさんある。「沖縄銀行」「沖縄大学」「沖縄赤十字病院」などはその例だ。

琉球新報社は一八九三年(明治二十六年)に沖縄で最初に新聞を創刊した。太平洋戦争直前に全国と同様、新聞統合され、戦後になって再び琉球新報の名前が使われるようになった。この社名は米軍の統治政策とは関係なく、米軍が沖縄にやってくるはるか以前からあった新聞で、歴史が古いということに重きを置いたものだ。「沖縄」と「琉球」には古くからこうした経緯、特別な事情がある。近年、沖縄ではどちらかというと、「沖縄」より「琉球」の株が上がりつつあるようだ。「本土」との同化志向が強かった戦前から戦後の復帰運動の中で「琉球」よりも「沖縄」を積極的に使ってきた沖縄県民だが、いまになって「琉球」を見直し、好むようになったのはなぜなのだろう。

それは沖縄県民のアイデンティティーと関係している。沖縄は戦前も戦中も戦後も、様々な面で他県とは違った扱いを受け、精神的に少数者の悲哀を味わわされ続けてきた。基地問題ではいまもその状態が続いている。だからこそ、ひたすら本土との同化、同一を追い求めてきた。沖縄の近現代はそんな歴史であった。沖縄はもともと、気候風土が東南アジア風で、従ってそこに住む人々の身体もどちらかというと東南アジア的にできているのに、明治以降、頭(考え方)の方は中央、東京(本土)を向くようになり(向かわされ)、中央からの情報、人、モノなど、なにごとも中央が沖縄より上位にあって、それに無理してでもならおうと懸命に努力してきた。身体と頭が別の方向を向いているので、身体がねじれ現象を起こし、肉体的、特に精神的に疲労していたと思う。

低賃金・労働集約型産業の拡大

この政治的・社会的対立が、後に人民行動党が輸出指向型工業化政策を進めるにあたり、華人企業家を避けて外資系企業を選択させた政治的要因となったのである。人民行動党は、華人企業家=華人社会の保護者を政治的に抑圧し、管理していった。タン・ロクサイは、1963年の総選挙で共産党系候補者に資金援助をしたとして、一時期シンガポール市民権を剥奪され、また華語の主要紙「南洋商報」の経営者は数年間投獄された。これら政府の管理や抑圧は、華人資本家の経済活動を萎縮させたはずである。もっとも1970年代以降、つまり人民行動党が支配を確立した以後は、華人資本家の新しい世代は政府系企業の経営や運営に参加しだしている。しかし先述の経営学者の論文になあるように、依然として政策決定におけるビジネス・エリートの影は薄い。政府系企業のトップは、殆どが元政治家か高級官僚で、同一人物が複数の企業の会長を兼任することもある。

シンガポールの経済を動かしているのは、やはり人民行動党の政治エリートと官僚なのである。もっとも官僚は人民行動党に取り込まれているため、実質的には人民行動党だけが動かしているといってよい。奇跡の発展をとげたシンガポール経済だが、労働集約型の輸出指向型工業化は、1970年代中頃から行き詰まり始めた。労働人口の不足を補う外国人労働者数が急増したのである。外国人労働者の殆どを占めるマレーシアからの出稼ぎ労働者は、76年以降、年率30パーセントもの増え方で、78年には5万8000人を超えた。その43.4パーセントが製造業に従事していた。シンガポール政府は、低賃金外国人労働者の供給によって、シンガポールの労働者の賃金水準が抑えられてしまうこと、それ以上に、労働者の技術習得意欲がそがれ、雇用者の生産技術の集約化・高度化の誘因が失われると考えた。

また、国土と労働市場が狭いために低賃金・労働集約型産業の拡大は限られており、製造業部門は成長力を失うことも懸念された。この状況に対処すべく、人民行動党政府は「第二次産業革命」と称される産業構造高度化政策に着手した。これはシンガポールがより高度な技術基地へ移行するのを加速して低賃金諸国との競争から抜け出し、経済成長のために安価な労働力に依存することを防ごうという試みである。政府は「超満員で過剰競争の(世界経済の)第三リーグを抜け出し、第二リーグに昇格する必要性がある」と述べて、労働集約型産業への依存から高度な技術を要する資本集約型産業(コンピューター関連産業や石油化学産業などの、大規模な設備や高い技術を要する産業)への移行を宣言した。

これはシンガポールのような発展途上国にとっては最も想像力に富み、かつ積極的で大胆な戦略である。まず、1979年から3年間にわたって、各企業に年平均約30パーセントの賃上げを行なうよう勧告する政策が実施された。これまで低賃金政策を取っていたことを考慮に入れても、30パーセントというのはまさに劇的な大幅賃上げといえる。賃金の上昇によって、労働集約型産業は撤退せざるをえなくなり、かつ生産工程の自動化と機械化が促されるだろうという計算である。また、労働者の質的向上訓練のために、技能開発基金が設立され、雇用者は賃金の一定比率を拠出することが勧告された。大幅賃上げと技能開発基金への拠出は、雇用者側にとって重大な負担である。さらに、いくつかの労働集約型産業への保護政策が廃止された。大幅賃上げと保護の廃止は、例えばシンガポールで自動車組立を行なうすべての外国企業の閉鎖となり、タイヤ製造を行なうブリヂストン社も閉鎖された。

自動車組立やゴム・タイヤ、エアコン、プラスチック、下着などの低技術・労働集約型産業は、近隣諸国へ転出を余儀なくされたのである。それらに代わる重点産業として、政府は航空機、コンピューター、工作機械や機械類などを挙げ、高付加価値で資本集約的な産業分野に進んでいくことを強調した。他方で、成長目標に必要な物的インフラストラクチャーの、大規模な拡張と改善も開始された。つまり「第二次産業革命」は、経済分野における国家の介入の水準と質をより一層高めるものでもあったのである。同時に、優秀な人材の開発のために教育政策の見直しがなされ、熟練労働者の数と質の向上のために、次で述べるような新教育制度が導入されてエリート教育が開始されるのである。

枯葉剤被害者の第三世代

枯葉剤は、「エージェント」と呼ばれ、3種類(オレンジ、ホワイト、ブルー)の混合物が使用された。オレンジとホワイトは成長や代謝を阻害するもので、ブルーは植物の脱水化を図るものである。オレンジ剤(エージェント・オレンジ)は2.4-D(ジクロロフェニキシン酸)と2.4.5-T(トリクロロフェノキシン酸)の混合物であるが、不純物として催奇性の強いダイオキシン等を含んでいた。サリンは水蒸気に触れると無害となるが、ダイオキシンは1300度以上の超高温でしか高速分解しない。このため毒性が長期に残存する。ダイオキシンは細胞質内の「レセプター」と呼ばれる物質と結合した後、遺伝子の特定部分と結合し、色々な遺伝子を活性化させる。

このため酸素の誘導、細胞の分裂の変化、細胞の分化の変化などが誘発され、がんの発生、奇形の発生、免疫の異常、発育の異常などを引き起こすとされている。枯葉剤のうちオレンジ剤が約6割を占めたとされていて、1962~65年の4年間だけでヴェトナムに撒布されたダイオキシンの総量は全体で約170キログラムと考えられている。2008年現在、ヴェトナム全土で約500万人がダイオキシンの影響をこうむっていて、枯葉剤被害者は300万人以上だと推定されている。現在でもクアンチ省では約3000人の子どもたちが枯葉剤の後遺症に苦しみながら必死に生きている。手足が4本ずつある「先天性四肢奇形」、頭がよじれた子、手の曲がった子、知的障害のある子、言語障害のある子など様々な障害児がいる。出産時に無頭症や水頭症ですぐ死亡するケースも多いという。

21世紀になって、ヴェトナムの枯葉剤の被害者たちが米国の裁判所に同剤を製造した化学製薬会社37社を相手に直接訴えるケースが出てきた。しかし2005年3月に第一審のニューヨーク地方裁判所は証拠不十分として訴えを棄却した。そこで、第二審の連邦巡回控訴裁判所に控訴した。その陳述会(審理)が07年6月18日に開始された。この裁判は世界中の注目を集め、米国だけでなく英国、フランス、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランド、日本、ヴェトナムなどで枯葉剤被害者を支援する人々が集会を持った。特に英国の「英越友好協会」は短期間に80万人の署名を集め、米国政府と米国の化学・製薬会社は責任を認めて、40年以上たっている枯葉剤被害者の救済に早急に着手すべきだと訴えている。

裁判の主要な争点は、


  1. 原告適格(ヴェトナムの枯葉剤被害者が米国の裁判所に訴訟を起こす資格があるか)

  2. 訴訟適格(訴訟の法定事項が成立しているか)

  3. 裁判所の権限(米国の裁判所に米国大統領・議会が既に決定した問題を検討する権限があるか)

  4. 被告適格(枯葉剤を製造した米国の化学・製薬会社が裁判の被告になるのか)

  5. 因果関係(枯葉剤が奇形をもたらすものか)

である。原告団は、第二審でも棄却された場合は米国連邦最高裁判所に上告することを考えているという。また政府レベルでも協議が続いている。米国国防総省とヴェトナム国防省は、2005年9月に「除草剤および枯葉剤の使用に関する問題を検討する研究会」を組織し、両国が共同で枯葉剤に関する問題を協議する場を作った。07年6月18日、19日に第二審の審理開始に合わせて第2回の研究会が開催された。このように枯葉剤の被害者を救済しようとする国際的な運動の輪が広がりを持ってきている。現在ヴェトナムには祖父や祖母が浴びた枯葉剤によって、障害を持つ第三世代の子どもたちが多数誕生している。

親は必ずしも障害を抱えているわけではない。両親は健常者で、障害を持つ子どもが生まれる等、全く考えたことのなかったカップルから生まれるケースの方が多数だという。既述のように戦後、皆今を生きるのに必死で、あまり戦争当時のことを生活の中で話題にしていない。また戦争を体験した者は、その辛さや悲惨さを思い出したくないためか、自ら進んで話そうとしない。生まれた子どもの障害を見て初めて、親族のうちに枯葉剤を浴びた人がいるかどうかを調べ、例えば父系の祖父が枯葉剤を撒布していた地域に兵隊として駐留していたことがあったという事実が明らかになった例などがあるという。地域的にいっても、枯葉剤の撒布が集中的に行なわれた地域だけに第三世代の被害者が集中しているのではなく、全国に散らばっている。枯葉剤による障害を持った三世代にわたる子どもたちを世話する「平和村」という施設が外国のNGOの支援を受けて全国に作られていて、2008年現在でその総数は11になっている。

日本人のインド観

日本とは多くの点で異なるこのような特性を持っているインドに対して、戦後の日本人はどのようなイメージを持って接してきたであろうか。1947年、インドは独立を勝ち取った。この時日本は連合国の占領下にあって主権を喪失していたから、独立したインドと国交を結ぶ外交自主権もあるはずはなかった。52年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して、日本はようやく主権を回復した。7年近くに及んだ対日占領が終わり、連合国との戦争状態はここに正式に終結した。インドはいくつかの理由でこの講和条約には加わらなかったが、同年6月8日には日印平和条約が締結されている。

基本的な内容はサンフランシスコ講和条約を踏襲していたが、日印平和条約は、いくつかの点で日本に対してより寛大で好意的なものになっている。第一は賠償請求権、占領費取立権の放棄を明記したこと、第二に条約の適用、解釈についての最終的解決方法として国際司法裁判所への付託ではなく仲裁によるとしたこと、第三に「和解と信頼」と表現したサンフランシスコ講和条約より、もっと明瞭な言葉で友好関係を強調し「堅固なかつ永久の平和および友好関係」を謳ったこと、などである。条約批准書の交換は8月27日。この日をもって独立インドと独立日本の国交が正式に樹立されたのである。独立以後のインドに対する日本人のインド観の変遷を大観してみたい。

大きく3つの時期に分けることができると考えている。第一期インドが光り輝いていた「片思いの時代」最近インド女性が続々としてミス・ユニバースやミス・インタナショナルの栄冠を獲得しているが、当時の日本人の「片思い」の相手はインド美人ではなく、卓越した男性指導者、知識人に向けられていた。第一にマハトマ・ガンディー。彼はインド独立直後に、ムスリム(イスラム教徒)に対して融和的であることに反発していたヒンドウ過激派の青年によって暗殺されたが、わが国では1920年代以降、このユニークな指導者に対する関心は高まっていた。アジア主義者の大川周明をはじめとして、ガンディーの人物や思想について書かれた書物や論文もいろいろ刊行されており、その名は広く知られていた。その一冊は「聖雄ガンディー」と題されている。

ガンディーは反英独立運動を指導する優れた民族的指導者であるが、世の常の英雄ではなく「聖人」なのである。そのイメージは仏教徒が崇拝する仏陀と重なり合い、深い宗教的叡智を政治的実践に反映させたマハトマ(偉大なる魂)に対する尊敬の念は、彼の暗殺後もわが国では広く抱かれていたのである。第二はスバス・チャンドラ・ボース。彼は会議派の有能な指導者として名声が高かったが、インド独立の手段方法に関して、非暴力主義を唱えるガンディーなどの主流派と見解を異にしていた。1942年に亡命先のドイツから潜水艦で運ばれてきたボースは、日本軍のシンガポール占領後捕虜となった英印軍のインド兵に働きかけて作られたINA(インド国民軍)の総司令官に就任し、44年に発動されたインパール作戦において、日本軍と協同して戦った盟友であり同志である。

終戦直後に台湾での飛行機事故で亡くなったが、インド独立にかける彼の情熱と献身的努力に、直接間接に感銘を受けた日本人は少なくない(たとえば国塚一乗「インパールを超えて」)。その遺骨は未だに東京の仏教寺院に手厚く保管されており、来日したインドの要人がしばしば訪れ、大東亜戦争中に花開いた両国の深い関わりを確認する歴史的絆となっている。第三は東京裁判にインド政府が派遣したラダ・ビノード・パール判事。彼は連合国の裁判官中唯一の国際法専門家として膨大綿密な判決書を書いたが、長文を理由として裁判所では朗読されることもなく、GHQはその邦訳も許さなかった。それが日本語の翻訳で読めるようになったのは占領が終わってからのことである。

彼は国際法の厳格な解釈に基づいて「A級戦犯」全員の無罪を主張した。日本側の戦争犯罪だけでなく、アメリカの原爆投下など連合国の国際法違反の行為をも鋭く指摘した点で、他の裁判官とは異なっていた。パール判決書はインド政府の見解をそのまま反映したものではないが、インド国民の日本に対する同情と理解を示すものと受け止められ、日本人の感謝の的となったのである。明治維新の志士が多く眠る京都東山の霊山など、日本の各地に彼の記念碑が建立されているのは、そのためである。

ページ移動